by 山田智也 2024年9月23日 ≪Column vol. 8≫
今日は久々にエアコンをつけないで過ごしました。日中はすこし暑いと感じましたが、扇風機をつけると、ちょっと肌寒くも感じました。夕方には窓を開けるといい風が入り、蚊も何匹かは家に入ってきましたが、夏の終わりですから、少しくらいご褒美で吸ってもらってもかまわないですよと、おおらかな人間を装っておりましたら、案の定、足をいくつか刺されて痒いです。でもなぜでしょうか、不思議と真夏に刺されるより腫れも小さく、いくらかマシだと思います。
日本は今、自民党総裁選の渦中、アメリカは大統領選です。日本でもアメリカでも、政治と宗教の話は公の場ではタブーとされてきましたが、連日のテレビ討論番組やネットでの議論やインタビュー番組などを始め、実に多様化したさまざまなメディア媒体で色々な角度で情報が流れ、それがまた沢山の個人のソーシャルメディアで拡散し、溢れています。
日本の選挙はテレビからネット上、特にソーシャルメディアに戦いの場を移しています。テレビの討論番組では(候補者数が多いので)質問時間がかなり限られていますのであまり深い議論になりません。しかし、著名なYouTuberの番組やインタビューなどに出演している候補者もいて、むしろその方が具体的な政策や候補者のパーソナルな部分まで見ることができて、私たち国民にとっては印象深く、より直接的な影響力があるかもしれません。
ただ、その中には、残念ながら、真実とは異なるであろう情報を流したり、いかにも特定の候補者の主張を支持するように巧みに編集された動画であったり、他の候補者への誹謗中傷やイメージダウンを狙うようなものもあり、正直残念です。正々堂々とできないからこそ、そういった他者への批判的なことに走るようなやり方では真のリーダーは生まれるはずはありません。ましてやソーシャルメディア上の情報は拡散して若い世代がたくさん視聴します。メディアリテラシーが不十分な学生や若者たちの感情を煽るようなタイトルで、実際に動画を開くといい年齢の大人達が誰はダメだ、それはバカだと、とても大人げない発言を平気でします。私の息子たち(大学2年生と高校3年生)も、思わず「ちょっとこれは酷いね、こんな動画の視聴回数増やすのは嫌だから見るのやめなよ!」という始末です。誰でもなんでも発信できてしまうソーシャルメディアの強さの一面がみえました。
一方アメリカでは、ドナルド・トランプ氏とカマラ・ハリス氏の討論会がありました。米ABCニュースで約1時間半の白熱した議論が放映され、約6,700万人がテレビで視聴したと言われています。実際にはソーシャルメディアで要約版やYouTuberのコメントや解説などを加えてもっと、しかも何度も繰り返し視聴されているはずです。世界的に影響力のある歌手のテイラー・スウィフトは、この討論会を自分の目で見て確かめた上でカマラ・ハリス氏を指示すると表明し、自身の投稿でこのように発信しました。
「多くの皆さんと同じように、私も今晩の討論会を見ました。もしまだそうしていないなら、何が議論になっているのか自分で調べて、自分にとって一番大事なテーマについて、この候補者たちがどういう立場なのかを調べるのに、今は絶好のタイミングです。有権者として私は、候補たちがこの国にどういう政策や計画を提案しているのか、できる限りあらゆるものを見て読むようにしています。」
実は、トランプ陣営は以前、テイラー・スウィフトがあたかもトランプ氏を支持しているように見せかける画像(人工知能AIを使って作成したものと思われる。)を投稿して虚偽情報を拡散し、テイラーのファン達に猛反発を受けました。
これに対してテイラーは、「おかげで、AIについて私が心配していることや、虚偽情報を拡散することの危険について、あらためて思いを強くしました。そのため、今回の選挙で私が有権者としてどうするつもりなのか、非常に透明に示さなくてはならないという結論に至りました。虚偽情報と戦うための一番簡単な方法は、真実です。」と答え、「私は自分で調べて、自分の選択を決めました。皆さんも、それぞれで調べて、自分で決めて投票してください。」と全世界に発信をしました。
日本では、ここまではっきりと自分の政治への関わりや主張を公表するミュージシャンは果たしているのでしょうか?
私自身も、トランプ氏とハリス氏の討論会を視聴しました。スタイルと価値観の異なる2人の候補者による非常に興味深い内容でした。
その内容について私がコメントをしたり、ましてや投票をする立場ではありませんが、ハリス氏が最後に発言したこの言葉には感銘を受けました。
「The true measure of strength is based on who you lift up, not who you beat down.」
真の強さを示すことができる秤(はかり)は、人を倒すことではなく、人を支えることである。
政治の話ばかりになってしまいました。日本やアメリカだけではありません。世界の社会情勢は変化、というか進化し続けています。一方で、時代の流れとは逆に一向に進化をしていないのではないか、と思うような国家や社会もあります。世界には、私たちからみると、ありえないと思うような社会がまだ沢山あり、それは、宗教や思想の違いであったり、文化や慣習が異なるからかもしれません。
自分で調べて、自分で選択をし、自分できめる、ということができる社会と、そうではない社会とがあるのだとしたら、どちらの社会を選ぶでしょうか。しかし、身近な社会の中でも、色々な慣習や固定概念、一定の既得権益などによって、自分の単独の考えや主張を通すことが難しく、また、そういったことを知る権利が阻害されるような風潮があるのも事実です。
議論の真の目的とは、相手を批評したり制圧して言い負かすことではなく、その議論を聞いている人たちの賛同を得るためにも、もっと行われるべきものなのかもしれません。そして、家庭であっても、会社であっても、さまざまな社会でより活発に行われるとよいかもしれません。
もちろん、そのときは年齢、性別、肩書きや経歴もすべて外してから、時に一杯のお酒を飲み交わしながらの議論もあったりすることで、ちょっとした難題であっても、実は簡単に解決する可能性があるかもしれません。