「普通」にできてしまっていること コラムvol.10

「普通」にできてしまっていること コラムvol.10

by 山田智也 2024年11月26日 ≪Column vol. 10≫

スマートフォンの普及と共にSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)がここまで流行り、社会に浸透し、いろいろなシーンでかなり存在感があり目立っています。ある調査によると、Z世代(約10代~20代)はテレビの視聴時間が年々減っていて、主な情報源がSNS(YouTube、TikTok等の動画サイトやX (旧ツイッター)、インスタグラムなど)に変わっているようです。

世界でも、新聞社やテレビのニュース番組などの各国大手メデイアも自社媒体のSNSアカウントからの動画や活字による情報発信の重要度が高くなり、世代ごとの視聴者を囲い込む取り組みに必死です。

とある日本のテレビ番組では、著名人のSNSでの特定の投稿についてわざわざ画面を切り取って、大きなパネルに印刷して、パネリストたちと、あーでもない、こーでもないと議論している場面もありました。これはまさにZ世代の若者(10代~20代)のテレビ離れを助長しており、SNSの情報が届かない人たちに向けて、SNS上でのやりとりについてアナウンサーとコメンテーターが座談会を開いているようにも思えてしまいますが、テレビとスマホから得る情報の性質自体がここまで変わってくると、もはや後戻りはできなくなって来ているのでしょう。

個人的には、テレビの放映枠をこのように使用して広告主にとっては問題はないのか、などと余計な心配してしまいますが、広告会社は年代別にテレビやインターネットの利用目的やコンテンツ、時間なども考慮して、YouTubeやTikTokなどの動画でも広告を配信できるように戦略を分けているようです。政治家の選挙活動でも、このSNSの影響が大きく票を動かし、あらゆる情報が拡散され、その情報源に対しての賛同や批判が生まれ、それぞれの意見に共感を求める人々に波及する性質を持っているのもSNSです。それに加えて偽情報や、偏った情報が溢れているSNSでありますが、メディアリテラシーの重要度が益々高くなり、一つの話題に対しての情報源に、他方からの視点などを取り入れた並行読みが推奨され、より慎重に情報を見極めなくてはならない。そのような世の中になってまいりました。

更に対話型のAI(人工知能)が身近になりつつあります。例えば、「SNSの普及の状況と、ビジネスにおける活用法のコラムを書きたいのですが、教えて下さい。」 とAIに入力すると、たった数秒でもっともらしい、要点が整理された文章が、ダダダーッとパソコンのモニターに現れます。この時点で、人間は到底敵いません。また、これまでGoogleやYahooの検索サイトに打ち込んで調べていたような身近な質問、例えばスパゲッティ「ナポリタン」の発祥は?と聞くと、AIは即時に答えます。

ナポリタンについては、諸説はありますが、イタリア南部のナポリ地方からニューヨークに移民した人たちが、故郷のトマトが手に入らないのでトマトケチャップを代用してパスタ料理をつくり、美味しく簡単なのでアメリカ全土に広まったとされています。(ちなみに、本国のイタリア人にとってケチャップを使用することは邪道で、「あれはイタリアではありえない」とのことです。) 日本では横浜の「ホテルニューグランド」が招聘したフランスのシェフが考案したものが原形とされ、また野毛にある「センターグリル」のシェフが戦後、進駐軍の米兵がスパゲッティにトマトケチャップをかけて食べていたことから発想を得て考案された、などという返答が帰ってきます。しかし、そのAIに「横浜で有名なナポリタンのお店はありますか?」という質問をすると、結構とんちんかんな答えが返ってきます。

この精度に関しては、まだ発展途上のようですが、今後Googleマップ上のさまざまな情報とリンクして、そのお店の評価なども含めてより明確になってくる時代はすぐそこに来ています。そして、いずれ私たちは、ナポリタンを食べたいと思ったときに、どの店に行くべきかをAIに聞き、AIに店を予約してもらい、AIが選ぶ料理を食べるようになってしまうのでしょうか。そう思うとちょっと考え深いですね。

大学の研究や論文の調査、また会社での資料作成などにも、AI による要約や文章のアウトラインを整理をして書き出すなど、日常で実用的につかわれ始めています。実際にそれらに触れてみて思うことは、気軽で、早くて、簡単、そして誰が使っても同じ使い方をすると、わりと同じような結果が生まれ易いということです。今の時代、ある程度のものは、画一的であっても良いというか、奇抜なものはあまり求められておらず、一定以上の期待値に達していること、例えば商品だったりサービスであっても、想定した品質や価格、内容であれば、消費者に「普通」に受け入れられるのかもしれません。

どこに出かけても普通にユニクロがあり、無印良品があり、いつでもどこでも同じような商品が普通に手に入ります。よもぎ饅頭が食べたければ、近所のセブンイレブンで買うことができますし、急にたこ焼きが食べたければ、お店のレンジでチンできます。普通にとても便利な世の中です。普通という言葉はスタンダードとも表現され、どこにでもある、ありふれたものであり、他と特に異なる性質をもっていないさま、という意味ですが、その普通があたりまえになるという状態が、私たちにとって果たして本質的に必要なのでしょうか。

気になるトピックをSNSで調べたり、AIに聞けば、すぐに普通の答えは見つかる状態。しかし、「普通」にわかってしまう感覚とは、同時にとても無機質な感覚に近いのかもしれません。感情の喜怒哀楽が現れない、想像すること、人と共感すること、不確実なものの中から、自分の意思で判断をする、ということがない状態は、虚ろな目でスマホ片手に流れるように歩く人々の群れのように思えてしかたありません。

年末に向けて、今一度いろいろなことの整理をして、ひとつずつの案件に向き合って、自分なりに考え、悩み、信頼できる人達に相談をしながら答えを出していきたいと思います。

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