by 山田智也 2025年1月27日《Column vol.12》
原体験という言葉を調べると「その人の思想が固まる前の経験や人格形成の基となる体験。深く心に刻まれ、以後の思想形成に大きな影響を与えたもの。新しい価値観がうまれ、なにか行動を起こすきっかけになるような出来事。」などとあります。
オテル・ドゥ・ミクニの三國清三シェフの本「三流シェフ」が幻冬舎から発行されました。北海道は留萌の近く、増毛町で手漕ぎ舟に乗る漁師の父と農業をする母との間に生まれ、中学を卒業後は札幌の米穀店に住み込みで働き、夜は調理師学校に通ったそうです。
同級生が高校に通っている昼間は仕事をして、夜は学校にいく毎日の中で、唯一の楽しみは、まかない夕食だったそうです。栄養士の資格を持っている住み込み先のお嬢さんが作る料理はいつもハイカラで、三國シェフはこのときに生まれて初めてハンバーグを食べたそう。実家で肉といえば、仕事で札幌に出ていたお兄さんが一年に一度、正月にジンギスカンを土産に買ってくるときだけくらいだったそうで、それ以外の料理といえば魚を焼くとか芋を煮るなど、とてもシンプルなもの。
そんななか、箸の先で初めて口のなかにいれた黒いデミソースのハンバーグはびっくりするほど柔らかくて美味しくて、思わず「旨め、旨め」という言葉を連発したそうです。このときの体験が三國シェフにとっての原体験のひとつになりえたのは、小学生の頃から父の漁を手伝い、一斗缶に貝や魚をいれて雪道を何キロも売り歩いた背景があるからこそであり、この当時ハンバーグを初めて口にした人たちがみな同じくシェフになりたいと思ったかどうかについては聞くまでもありません。
ネタバレになってしまうので、あまり書きませんが、この体験が後に世界の三國として活躍したシェフのスタート地点であり、道なき道を自らの力で切り開き、数々の伝説を残した歴史の原点とも言えるでしょう。
現在は閉店してしまいましたが四谷にあるオテル・ドゥ・ミクニに、20数年前に一度だけ行ったことがあります。行ったと言っても呼んで頂いただけで、中高生時代に長期休みになると居候バイトをさせてもらった長野県黒姫高原のペンション竜の子のオーナーであった、故 中原英治さんが主宰したお祝いの席にお招き頂きました。
四谷の住宅地に突然森の中に迷い込んでしまったかのような、大きな木々に覆われた洋館のレストラン。緊張しすぎて料理の味や素材は細かくは覚えていませんが、すべてが新しく、そして美味しくて感動した初めての料理体験であったことは間違いありません。今思い返すと、食事を共にする時間というのはとても大切です。誰かを誘って、また誰かが他の誰かを誘って、人と人とが交流をする場において、料理という接点がとても重要な役割を果たすことは大いにあるなと実感します。
私がお世話になった黒姫の英治さんは、居候の子どもたちに、決まった額ではなく毎度そのときの働きぶりで小遣いをくれました。その代わり、賄いで腹一杯食べさせてもらったり、美味しいもの、とくにご自身が好きな店でよくごちそうしてくれました。私がいまでも忘れることができないのは、長野県の「牟礼」という小さな駅の近くに菊寿司というお店があり、高校生の時に初めて連れて行ってくれました。カウンター席に二人で座り、好きなだけ食べろと言われたので、お昼のお任せ握りのコースを特別に2貫ずつ2周して、さらに巻物まで注文させて頂いたら、店を出て帰りの車の中で、お前は遠慮というものを知らないのか、と言われたときの英治さんの嬉しそうな苦笑いの横顔が記憶にしっかりと刻まれています。
不動産や建築の仕事では、無事に契約に至るまでには色々な背景や経緯があります。時に相対し利害が一致しない場合も少なくはありません。大事なことは、苦笑いしながらも、まあしょうがないかと腹をくくる場面です。寿司屋はネタとシャリがあれば握れますが、不動産屋の場合は、買主と売主、それから貸主と借主がいないと、商売が成り立ちません。
特に価格の折り合いがつかないときや交渉などに時間がかかるときに何かしらの妥協が必要な場面もあります。そういったときに臨機応変に動き、話をまとめることをしなくてはいけないのが私達の業界の仕事です。難しい案件ほど、時間がかかり、調整が複雑で、時に感情的になり、時に割に合わないなと思うような仕事もありますが、そういった仕事こそが、実は忘れられない原体験になりうるのかもしれません。