by 山田智也 2025年6月25日 ≪Column vol. 17≫
最近の大手チェーン回転寿司店に行くと、お会計のとき以外、ほぼすべてがセルフサービスです。
まず、デジタル画面を操作して、席の番号をもらいます。着席すると次はタッチパネルです。メニューはとても見やすいです。オススメ商品の紹介などもあり、選びやすい構成になっています。お皿の到着のスピードも以前より早くなった気がします。
引き出しからお箸やガリ、わさびやお手拭きまで、すべてが揃っています。調味料も何種類もあって、粉茶も目の前にある蛇口ですぐにつくれます。そして最近は、ナレーションが付いています。キャンペーンなどで「選べる!タッチパネル声優ナレーション」というような企画までもあるようです。
お会計ボタンを押すまでの全てが一連の完成された流れとなっていて、改めてなるほどなあ~と考えさせられました。いったい、誰が、どうやって調理しているんだろう。厨房の中が気になるのは私だけでしょうか。
さて、この「セルフオーダーシステム」をネットで調べてみると、「店舗運営を効率化して人件費削減を実現!」などというフレーズが目に飛び込んできます。たしかに効率的ですが、でも、なんとなく少し物足りなく感じることもあります。
先日、居酒屋のチェーン店で、息子が幼なじみの同級生たちと宴会をしました。昔、この子供たちのサッカーコーチをしていたので、この日は親父としてカンパしてあげようと思い、そっと店員さんに「これ、あそこのテーブルのお会計に足しておいてもらえますか?」とお金を包んで渡そうとしたところ、店員さんは戸惑ったような表情で固まってしまいました。あっ、そうか、と気がついて、結局直接手渡すことにしました。(結果的にはそのほうが、久々に顔を見て話もできて、良かったのですが。)
私はついつい、居酒屋などに行くと注文の度に店員さんに声をかけてしまいがちです。つまらない冗談を言ってしまうことも多々あります。店員さんからすれば、たいていはきっと「うざい」と思われているはずです。(そのうちタブレットにAIのロボットが話し相手になる機能がついたりして・・・)とはいえ、そういったやりとりにこそ、外食の楽しさがあるように思えてしまうのです。
もちろん、私のような人に対して「そういう店を選ばなければいいだけです」と言われれば、それまでのことなのですが。ときどき、自分は時代に逆らう偏屈な人間なのではないかと思うことがあります。社会のいたるところで、「人のいる窓口」はどんどん減っています。「私にはわからない」「理解できない」「それは自分には無理」と口にする度に、時代から取り残されてしまう気分がしてしまいます。
いまの社会は、“できる人”を前提に、あらゆる仕組みが組み立てられて、もしくは組み直されているようにも思えます。社会全体が、そういったものさしを基準に動いているように感じます。それは、単なる技術進歩というよりも、「どれだけ効率的で、どうすれば最大の利益につながるか」といった価値観を最上位に置く、いわゆるキャピタリズム的な思考があるからかもしれません。
ガツガツ働いて、がむしゃらなのもいいですが、体力的にも気持ちの上でも、少しゆとりを持つことが大事ではないかと思ったりもしますが、「だからもっと、そのためにも色々と効率化していかなくてはダメなんです!」と怒られそうですが。
いまは、人情や情緒よりも、コスパとタイパの時代です。生産性のない時間は“無駄”とされ、上下でいえば“下”に位置づけられてしまうようです。こうした考え方は、私たちの生活を根本から変えつつあります。人件費はコストとされ、そして多くの場面で人の判断には誤差があり、リスクとさえみなされてしまいます。データと結果に基づく、人間を介さない仕組みこそが“効率化”なのであれば、人間の役割は今後どうなっていくのでしょうか。
いつの時代もそうかもしれませんが、社会の大きな流れそのものを止めることは、やはり難しいものです。
とくに今は、デジタル化への適応力によって、人々が知らず知らずのうちに“選別”されているようにも見えます。もちろん、変化そのものは大切です。けれども、社会のすべての人が、その変化を歓迎し、前向きに対応できるわけではない。
そうした現実には、あまり光が当てられていないように思います。この背景には、ビジネス偏重の社会構造があるのではないでしょうか。経済成長や効率化を最優先するあまり、「変化に合わせること」が個人の責任とされ、その結果として、あらゆる場面で“デジタル化せざるをえない社会”が、当然のように進行していることに怖さを感じます。
その影響は、経済だけでなく、社会全体のバランスにも確実に及んでいます。先日の東京都議会選では、都民ファーストが第1党に返り咲き、自民党は過去最低の議席数でした。各政党の勢力が拮抗する結果となりました。特定の政党が圧勝したわけではありませんが、「現状のままではいけない」という都民の意思が票に込められていたことは確かです。
デジタル化が進むなかで、日本が目指すべき理想の社会とは何でしょうか。
ひとつの答えとして、人とデジタルが「いい塩梅(あんばい)で共存していく社会」が挙げられるのではないでしょうか。
日本ならではの感性―柔らかさや曖昧さのなかに、なんとなくいい具合に調和をとるような感覚―が必要なのではないでしょうか。
もっと“言語化”してください、なんて言われそうですが(それは私の語彙力がまだ未熟だからだと思いますが)、感覚的な情緒、つまり数値化や理論化できない人間の感情こそが、デジタル化できない人間の魅力なのではないでしょうか。